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ノンフィクション作家・平井美帆 オフィシャルウェブサイト

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おもな掲載記事 ARTCILE

月刊現代(講談社)2006年5月号
注)法整備の状況などについては掲載当時のものです。




ある夫婦の闘い 〜代理出産 見捨てられた現実〜

 

2005年11月24日――。
最高裁の才口千晴裁判長は、代理出産によって産まれた子どもの「出生届不受理」の取り消しを求めていた夫婦の抗告を棄却した。この決定によって、代理出産の親子関係は認められず、「出産した女性が母」という既成概念が再確認された。
代理出産に関して、国内初の裁判を起こしていたのは、関西に住む50代の西野徹と妻の典子(仮名)。
二人はアメリカの代理出産エージェンシーを通して、代理出産契約を結び、2002年秋に双子の男の子を授かった。帰国後、出生届が受理されていれば、何の問題もなく家族四人での新しい生活がスタートするはずだった。これまで、代理出産によって子どもを授かった他の日本人夫婦と同じように……。
国内では実施不可能な代理出産を行なうため、アメリカへ渡る不妊患者たちは存在する。日本では代理出産に関する法律はないが、日本産科婦人科学会(日産婦)が会告、つまりガイドラインによって禁じているからだ。

では実際に、どのくらいの日本人がアメリカで代理出産を行なってきたのか?
現在、その数は「100件以上」(読売新聞、2005年11月25日付)だといわれているが、実際にはそれ以上の数が推測される。
ロサンゼルスにある全米で最大手の代理出産エージェンシー、「サロゲート・ペアレンティング・センター(CSP)」では、これまでに21組の日本人夫婦の代理出産を成功させている。
日本(東京)に本社がある「卵子提供・代理母出産情報センター」(代表・鷲見侑紀氏)では、51組が成功し、代理出産によってこれまで計71人の子どもが誕生している。
2社の合計だけで、すでに70組を超えているのだ。代理出産エージェンシーは日本人が利用しやすい大手だけでも、このほかに数社あり、また仲介サービスを利用せずに自分たちで直接、代理母を見つけるケースもある。
これらのことを踏まえると、過去に代理出産によって子どもを授かった日本人夫婦は、400〜500組くらいではないかと推測される。しかも、この数字はあくまで「成功した人たち」である。代理出産に挑戦したものの、子どもの誕生まで至らなかった人たちは含まれていない。
実質的に、代理出産が禁じられている日本。しかし、その陰で、これだけ多くの不妊患者たちが代理出産に最後の希望を託してきたのだ。


代理出産への「決断」

「不妊治療ですか? 体外受精は何回もやりましたけど、あの排卵誘発剤っていうんですか。あれ、飲まなあかんでしょ。あれねえ、お腹の調子悪くなるんですわ。私が神経質なんか知らんけど、あれが苦手でね……」
50代にして念願の母になった西野典子。関西の閑静な住宅街で暮らす彼女は、夫の徹と結婚してから十数年間、ごく普通の主婦として静かな日々を送ってきた。
わが子を胸に抱くことだけはどうしても諦めきれない、と代理出産を言い出したのは2歳年下の夫・徹だった。
「私なんか、遠い外国のことで、そんなん何がなんだかわからないかんじでね」
柔らかい口調で典子は語る。
徹の頭には40代半ばからすでに、現実の選択肢として代理出産があり、帰宅すると、毎晩のようにインターネットで代理出産に関する情報を集めていた。
彼から手渡された資料によると、1996年の3月末、徹は大学病院の泌尿科で精子の採取を実施している。
加齢に伴い、卵子だけでなく、精子も生殖能力が低下していく。少しでも若いうちに精子を凍結保存しておいたのは、代理出産の可能性を考えてのことだった。実際にこの5年後に行われた体外受精では、このとき凍結保存された精子が解凍して用いられた。
インターネットで代理出産エージェンシーを探し出した徹は、複数の会社にメールを送った。そして、やりとりをしたなかで、もっとも丁寧で迅速な対応をしてくれた前出のエージェンシー、CSPを利用することに決めた。代理出産エージェンシーは、単なる代理母の斡旋業者ではない。
代理出産という一大プロジェクトをまとめ、進行させていく重要なコーディネーター役を担う。さらに、不安を抱えたクライアントたちの相談窓口ともなる。

アメリカには100社近い代理出産エージェンシーがあるが、半数以上が法整備の整ったカリフォルニア州に集中している。「エージェンシー」とはいっても、まったく体制の整っていない個人会社もある。
徹の選択は正解だった。彼が選んだCSPは、他社に先駆けて約25年前に代理出産の仲介サービスを始め、アメリカ国内外に名の知れたトップエージェンシーだからだ。
徹と典子はさっそく、必要書類を揃えて、CSPに提出した。
一方、CSPに登録している代理母は、複数の依頼主夫婦の書類に目を通し、「この人たちに会いたい」と希望する夫婦を選ぶ。依頼主夫婦と代理母のマッチングは、お見合いに近いものがある。その後、カウンセラーが進行役となり、お互いの顔合わせを行なう。
CSPから紹介された代理母は、南カリフォルニアに住むシングルマザーのナタリー(仮名)。彼女は敬虔なクリスチャンで、代理母になることに強い意欲を持っていた。
面会を経て、ナタリーと正式に契約を結ぶ日がやってきた。それでも、典子は半信半疑だった。なにしろ、すべてが初めてのことで戸惑っていたし、CSPの担当者から、「100パーセント成功するとは限りません。成功率はだいたい60パーセント」と告げられていたからだ。






「人工授精型」と「体外受精型」

たしかに、道のりは平坦ではなかった。典子は50歳を越えていたため、自分の卵子を体外受精に用いることはできなかった。そのため、卵子提供の契約も結んだ。第三者の女性の卵子と、徹の精子を体外受精させ、その受精卵を代理母の子宮に移植する方法である。
代理出産には、人工授精型と体外受精型がある。
人工授精型は、依頼主の夫の精子を、代理母の子宮内に注入する方法。体外受精型は、依頼主夫婦の体外受精卵を、代理母の子宮内へ注入する方法である。体外受精型はさらに、依頼主の妻の卵子を用いる場合と、提供された別の女性の卵子を用いる場合に分けられる。
アメリカでも十数年ほど前までは、まだ人工授精型代理出産が大半を占めていた。しかし、現在は体外受精型代理出産がおよそ9割を占める。体外受精の技術が不妊治療に浸透し、コストが下がったことが要因だが、親権争いのリスクをできるだけなくす意図もある。
依頼主男性の精子を代理母の子宮に注入する人工授精型は、代理母と子どもに遺伝的つながりができてしまう。それゆえ、代理母に「自分の子ども」という意識が生じやすくなるのだ。たとえ、依頼主女性の卵子を用いることができなくても、代理母の卵子となる人工授精型ではなく、卵子提供を受けたうえで体外受精型を行なうのがいまの主流となっている。
代理母が決定すると、いよいよ代理出産のプロセスが始まった。
徹の精子と卵子ドナーの卵子を体外受精させ、分割した受精卵(胚)から質の良い3つを選び、ナタリーの子宮に胚移植した。体外受精と胚移植は無事終了し、妊娠テストの結果は陽性だった。が、喜んだのも束の間、2週間後にナタリーは流産してしまう。
代理母になるには年齢制限があるため、引き続きナタリーが代理母を続けることはできなかった。

代理母になるための条件

CSPでは、代理母になるための基本条件を設けている。
1 アメリカの永住権を持ち、いま現在アメリカに住んでいること
2 ノンスモーカー
3 年齢は21〜37歳まで
4 経済的に安定していること
5 自分で出産した子どもが1人以上いる

これらの条件を満たす立候補者には、対話形式と心理テストから成るスクリーニング(適格審査)が実施される。
20年以上にわたって、CSPで代理母のカウンセリングを行ってきた心理カウンセラー、ヒラリー・ハナフィン氏によると、代理母を志願する女性には次のような動機がある。
「子どものいない人生なんて考えられないから、不妊夫婦を助けたい」
「自分の人生において特別なことをしたい」
「親戚や友人に不妊で苦しんでいる人がいる」
「妊娠している状態が好きだから」
代理母になる女性は一般的な中流家庭に育ち、伝統的な価値観を持っている人が多いという。金銭目当ての女性はほとんどいない。
代理母に対する報酬の相場は、2万ドル前後(約230万円)。通院やホルモン注射、10カ月間の妊娠期間、出産のリスクなどを考慮すれば、報酬というよりも、最低ラインの協力費といえる金額である。

CSPが次に紹介してくれた代理母は、北カリフォルニア郊外で家族と暮らすキャロル(仮名)。彼女には以前にも代理母の経験があった。
徹と典子は再びアメリカ西海岸へ飛んだ。サンフランシスコのレストランで、カウンセラー、日本人通訳者を交えて、キャロル、彼女の夫と対面した。人の良い彼らの笑顔に、二度目の希望を託すことに決めた。さらに、卵子ドナーも替えることになり、新たな卵子提供契約を結んだ。
2002年4月、卵子ドナーの卵子吸引が行なわれた。22個の卵子を採取、顕微授精法の体外受精によって17個の受精卵ができた。最終的に、キャロルの子宮内へ移植された胚は4個。
2週間後、キャロルの妊娠が無事確認された。
「双子になりそうだ」と連絡を受けたとき、徹と典子は手放しで喜んだ。心配や不安などなかった。双子なら一緒に遊ぶことができるし、お互いに支え合うことができる。経済的な懸念は二の次だ。

8月下旬、キャロルが入院したとCSPから連絡が入った。理由は「少量の破水があった」ということだった。二人は慌てて渡米する。
キャロルは出産まで長期入院することになった。まだ妊娠四ヶ月あまり、という状況を考えれば、あまりも早すぎるのだが、宿泊したホテルで子どもたちの名前を考えた。不安でいっぱいだったが、それでも子どもたちの名前を考えていると、少しは気持ちが和らぐのが感じられた。
そして2002年10月17日、ついに双子の男の子が誕生。超未熟児となるのだけはなんとか回避できたが、双子の体重はそれぞれ1248gと1305gで、NICU(新生児集中治療室)に入ることになった。
「子どもたちが入院している間、キャロルさんも病院来てくれてね。産んでからは健康に戻りはって、ほんとに安心したわあ――」
典子は胸を撫で下ろすように、当時のことをふり返る。

 

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